可愛山陵(えのみささぎ)は、日本書紀に現れるニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)・吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)とともに神代三山陵の一つ。
概略
ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」とある。
久之、天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。
「延喜式諸陵式」に「日向埃山陵。天津彦瓊瓊杵尊在二日向国一、無陵戸」(二、一は返り点)とあるが、この陵は延喜式よりも前に中央の官掌を離れて、その所在を単に「在日向国」、また「無陵戸」と表されていた。しかしその祭祀は重んじられ、神代三陵のために山城国葛野郡田邑陵の南の原に方1町の地を画して遙拝所に当てられたことがある。
その所在は江戸時代末以来諸説紛々としたが、現在の治定地は鹿児島県(薩摩国)である。
薩摩国は大宝2年(702年)には日向国から分離して成立していたとみられるが、養老4年(720年)に成立したとされる日本書紀はウガヤフキアエズが日向国で没した旨を記録していることなどから、神代三陵の場所は、今の宮崎県であるとの説がある。
しかし、当時の日向国とは、今の鹿児島県・宮崎県を含む南九州広域を指す地名であることから、薩摩国の成立年を以って神代三陵の場所が鹿児島県(薩摩国)ではないとするのは些か乱暴である。
この日本書紀の記述にある日向国は今の宮崎県であるとする説が主張するのは、713年に大隅国は日向国から分離して成立していたのであるから、それから7年後の720年に成立した日本書紀が大隅国で起きた記事を日向国と書くはずがない。だから日本書紀が記する日向国は薩摩、大隅の分離後の日向国つまり現在の宮崎県であるというものである。
しかし日本書紀には、日本書紀が成立する18年前の702年に薩摩国が成立していたにもかかわらず「大隅の隼人、阿多の隼人」と書かれてあり、延暦16年(797年)に完成した続日本紀のように「大隅、薩摩二国の隼人」とは記されていない。「薩摩」と書かずに、一貫して規則的に「阿多」と書いている。
すなわち、古事記、日本書紀は、ともにこれらの書が成立した時点での国名、地名によって記載を行なっているのではない。ある事件を記する場合は、その事件が起きた当時の国名、地名の呼び方によって記載を行なっているのである。
このような表記の規則は、続日本紀にも明確にみとめられ、大隅国が成立した713年以前の710年の記事では「日向の隼人、曾の君、細麻呂」と記している。「大隅の隼人」とは記していない。そして713年以後の717年、723年等の記事では、「大隅、薩摩二国の隼人」と記し、「日向の隼人」とは記していない。
治定の経緯
新田神社
1874年(明治7年)、宮内省により、可愛山陵(えのみささぎ)・高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)・吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)が治定され、可愛山陵は新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山にある陵とされた。
明治7年(1874年)7月10日、他の日向三代の神の陵、とともに勅定があり、大いに修治された。新田神社の可愛山陵は大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。
現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理されている。大正9年(1920年)3月30日には昭和天皇(当時の皇太子)が参拝、昭和37年(1962年)には明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)が参拝など、皇族の参拝は9回にも及んでいる。
- 形態
現在、可愛山陵と治定されている新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
陵形については、方墳(南北11m・東西10m)説の他、髙塚式円墳説、扁平な小方丘説などがある。
神亀山は、火山活動によってつくられたシラス土壌が一般的な土地に粘土質の岩盤から出来ており、川内平野にぽつんと孤立した山塊であることから、一説には人為的に築かれたものではないかともいわれている。
脚注
参考文献
- 紀元二千六百年鹿児島県奉祝会『神代三山陵に就いて』、紀元二千六百年鹿児島県奉祝会、1940年。
- 『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』、川内中学校、1936年。
- みやざきの神話と伝承101[1]




