文公(ぶんこう、紀元前?年 - 紀元前635年)は、衛の第21代君主。黔牟の弟の昭伯(頑)の子で戴公の弟。

生涯

昭伯と宣姜の子として生まれる。

初めのころ、姫燬は衛が内乱ばかりなので母の実家である斉へ疎開していた。

懿公9年(前660年)12月、懿公が翟(てき:狄)の侵攻を受けて戦死すると、都の朝歌を放棄した民衆730人は共・滕から逃れてきた民衆と合流し、計5千人を引き連れて曹(現在の河南省滑県)に遷都し、戴公を立てた。しかし戴公がその年に亡くなったので、弟の姫燬(以降は文公と表記)が代わって衛の君主となった。

文公2年(前658年)1月、斉の桓公が衛を楚丘(現在の河南省滑県の東)に遷都させた。文公は大布の衣(粗布)、大帛(喪服用の厚いきぬ)の冠を身につけて礼に従い、農を教え、商を流通させ、工人を恵んで財政につとめ、教えを敬い、学を勧め、百官を授け、能材を任用して行政を整備した。また、賦税を軽減し、刑罰を公平にし、自ら労して人民と苦しみを共にし、民衆の心を収攬した。

文公4年(前656年)4月、文公は斉(桓公)・宋(桓公)・陳(宣公)・魯(僖公)・許(穆公)・曹(昭公)と会合し、ともに蔡に侵攻して潰走させ、さらに南の楚にも侵攻した。12月、斉・宋・衛・鄭・許・曹の6カ国連合は会合して陳に侵攻した。

文公5年(前655年)夏、文公は斉・宋・陳・魯・鄭・許・曹とともに周の太子鄭と会合し、周の政治について話し合い、その秋に首止(衛の地)において盟約を交わした。しかし鄭は盟約を結ばずに逃げ帰った。

文公6年(前654年)夏、文公は斉・宋・陳・魯・曹の会合に出席し、前年逃げ帰った鄭を攻撃して新城を包囲した。秋、これに対し楚が鄭を救うべく許を包囲したため、6カ国連合は許を救って帰還した。

文公10年(前650年)1月、温が狄によって滅ぼされ、温の君主である蘇子が衛に逃れてきた。

文公12年(前648年)春、狄の襲来を恐れたため、諸侯は衛の都である楚丘の外城を築いてやった。案の定、翌年(前653年)の春に狄の侵攻があった。

文公16年(前644年)、晋の公子重耳が衛を通過したが、文公はこれを礼遇しなかった。

文公17年(前643年)10月、覇者であった斉の桓公が薨去すると、斉では公子無詭が公位を簒奪し、公子昭が宋に逃れた。そのため翌年(前642年)、宋の襄公は曹・衛・邾を率いて斉を討ち、公子無詭を殺して公子昭(孝公)を立てて帰還した。

文公22年(前638年)夏、文公は宋の襄公の鄭攻めに参加し、許男・滕子とともに鄭を攻撃した。

文公25年(前635年)1月、文公は邢を滅ぼした。4月、文公が薨去し、子の姫鄭が立って衛君(成公)となった。

参考資料

  • 『春秋左氏伝』(閔公二年、僖公二年、四年、五年、六年、十年、十二年、十七年、二十二年、二十五年)
  • 司馬遷『史記』(衛康叔世家第七)

王文公文集 书格

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