久保木 清(くぼき きよし、1921年 - 没年不詳)は、広島県出身のプロ野球選手(外野手)。
経歴
広島商業高から慶應義塾大学に入学。1943年に行われた出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる「最後の早慶戦」)では、故障していたエース・大島信雄に代わって先発投手として登板するが、早稲田打線に打ち崩されて敗れた。戦後に復学すると、1947年には主将を務め、同年春期シーズンでは.375で首位打者となった。
大学卒業後は、社会人野球の山崎産業を経て大昭和製紙でプレーしたのち、1950年シーズン途中に28歳で読売ジャイアンツへ入団。
入団早々、6番・右翼手で先発出場するが結果を残せず、シーズンでは21試合の出場に留まり、打率.167に終わる。以降は出場機会に恵まれず、1953年はコーチ兼任となるが、同年末に退団した。
その後、社会人野球の電電東京と日本鉱業佐賀関に所属した。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 21 (1950年-1951年)
- 9 (1952年)
- 55 (1953年)
脚注
関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 久保木清 - NPB.jp 日本野球機構




